2014年05月18日
赤城自然園

赤城山鳥居峠の篭山にアカヤシオを見に出かけた。
風が強く冷たかったので歩くことはせずにちょっと見ただけでお終い。
アカヤシオは咲いてはいたが終わったのかあまり見栄えは良くなかった。

忠治温泉経由で赤城南面に下り、からっ風街道を走り始めての赤城自然園へ寄ってみた。運営は潟Nレディセゾン。たしか西部堤社長の命を受けた社員がコツコツと作り上げたとの記事を読んだことがある。そこでネットで調べてみるとありました。その転用です。

==================================================

 群馬県渋川市赤城町の赤城自然園。自然園は、文化や芸術を企業が支援するメセナ活動の先駆けとされながら、事実上解体したセゾングループの遺産だ。復活の陰には、この四半世紀を同園の整備にささげた埼玉県ゆかりの一人の情熱があった。

◇異動
 自然園は赤城山西面の約120ヘクタールに広がる。昆虫類1810種、鳥類77種、哺乳(ほ・にゅう)類15種、植物類660種以上が園内で確認されている。木材価格の下落などに伴って荒れ放題だった杉林を、本来の自然の姿に戻す作業が1982年から続けられてきた。
イメージ 1再会にこぎつけ、笑顔がこぼれる片場富夫さん=赤城自然園
 当時、西武百貨店やパルコなどの西武流通(後のセゾン)グループを率いていた堤清二さん(83)が、百貨店の屋上でカブトムシやオタマジャクシを初めて目にする子どもたちの姿にショックを受けたのがきっかけだった。
 グループは70〜80年代、東京・渋谷をファッションと若者の街に変え、美術館や劇場を手がけ、「セゾン文化」と呼ばれた。「21世紀を担う子どもたちが自然を体感する場にしよう」という発想もその延長線上にあった。
 スーパー西友のバイヤーだった片場富夫さん(62)は、畑違いの自然園に責任者として異動した。35歳だった。「なぜぼくが」。不満を抱えての赴任だった。堤さんから具体的な指示はない。「10年や20年で結果が出るわけがないよ」と言うだけだった。

◇荒れた山林整備・閉園
 家族を志木市に残して園内に住み込み込んだ。各地の林道工事の現場から木々を移植したり、水場のない谷間に水を引いたり。どうすれば自然を体感できる場になるかを考え、試行錯誤を繰り返すうち、夢中になった。鳥や昆虫が増え、木々の緑も豊かになっていった。
 敷地の半分は、一定の整備ができた95年から公開。残る敷地の整備が地道に進められていた。だが所有していた西友は自然園経営に見切りをつけ、2009年3月、閉園した。定年退職を過ぎても雇用延長で残っていた片場さんら運営スタッフは解雇された。
 人件費や維持管理費に年間数億円がかかる一方で、公開日は春から秋にかけての週末の50日程度。「西友は外資系になり、採算性に厳しくなった」と関係者は言う。
 バブル経済崩壊後、不良債権処理などの影響でグループは事実上解体され、100億円以上が投じられた自然園は「野放図なグループ拡大のツケ」と経済誌に書かれたこともあった。

◇無報酬で手入れ
 いずれは荒れた山林に戻ってしまうのではないか。危機感から、片場さんは閉鎖された園内にとどまり、無報酬で手入れを続けた。
 しかし、状況は悪化。夏には片場さんは完全に閉め出された。片場さんは、自然園を訪れたことのある企業の経営者らを回って「力になってもらえませんか」と訴えた。
 セゾングループの中核だったカード大手、クレディセゾンが引受先になった。社長の林野宏さん(67)は堤さんの部下として、自然園の構想当初にかかわった若き日を思い起こす。「企業メセナの先駆者だったセゾン文化の遺伝子は、いまの若い社員にも引き継ぎたい」

自然園は、「セゾン文化」の遺産として復活した。
 堤さんは言う。「片場くんには頭が下がる。出世を考えたら貧乏くじだったはずだが、自然園を愛し、育ててくれた」
 再開を祝う式典で、再び自然園の責任者となった片場さんが関係者を前にあいさつした。「みなさんに救っていただいた。木々や昆虫も喜んでいる。みなさんの誇りとなるよう、整備を続けていきたい」

5月中旬に自然園を訪れた堤さんは、咲き競うツツジやシャクナゲに目をやり、満足げだったという。<朝日新聞2010年06月15日地方版より転載>

==================================================

画像

季節がらシャクナゲやツツジが素晴らしく感激した。園全体のつくりや雰囲気も良く、是非紹介したい施設だ。これからも度々足を運ぶに違いない。

inserted by FC2 system