単独行
2003年12月6日(月)
 私は一人で山に入ることが多い。必ずしも好きこのんでそうしているわけではないが、自分のペースで事が進められるから気楽で良い。どの山にいつ登るのか、天候はどうだろうか等自分の気力や気分により、前日または当日でも登山計画を決定できる利点が先ずあげられる。夫婦で登山を楽しむ方が多いのもその柔軟性や気楽さにおいて似たようなものがあるからだろう。従って私は途中に小雨に降られた事はあったにせよ、雨天に雨具を身につけての確信犯的日帰り登山は経験したことがない。

 山に一人で入ることに批判的な人が多い。遭難した場合に一人ではどうしようもないだろうと言う訳だ。最低二人は必要で四人のパーティーならより良い対処が出来ると言う。確かにその通りかもしれないが、逆に遭難の危険性が増すことが考えられないだろうか。まずは気のゆるみである。単独行であれば全ての決定を自己の判断で行わなければならないため自ずと慎重にならざるを得ない。地形を確認したり時間やペース配分等を考慮し、常に行動決定をしながら歩かなければならない。同行者がいればたとえ僅かでも依存心が生じうるであろう。思考を停止したまま歩いてしまうこともあるかもしれない。足でも挫いてしまえば終りである。次に体力差である。同行者全てが同様の体力を持ってはいない。当然最も体力のない者にペースを合わせることになるが、恐らく彼は無理をするだろう。同行者に迷惑をかけてはいけないと・・・。単独行であれば同行者に気を使うこともなく自分のペースで歩くことができる。行くも戻るも自由である。

 山に何を求めるのか。その答えは人それぞれ異なるだろう。付随する楽しみとしては仲間とのお喋りや山頂での一杯など色々ありそうだ。しかしその本質は何なのだろうか。
私の場合、最初の頃は家族を誘って山に入っていたが段々と面白くなって単独行を行うようになった。地形図やガイドブックを参考に歩くわけである。ただ山頂に向かって歩くのである。一人で歩くのである。畏れを抱きながら歩くのである。孤独ではあるが不思議と心が開放されている自分に気づく。心の奥底のもう一人の自分が目覚めているような錯覚に陥る。見るもの感じるもの全てをありのままに受け入れている自分がそこにいる。何故か心がうきうきして来る。結局、山を歩くと言うことは精神の遊びなのだ。自分の吐息を聞き、落ち葉を踏む音を聞き、鳥の鳴声に耳を澄ます。そして精神の高揚を感じる。

 現代はまさにコミュニケーション社会と言えるだろう。インターネットや携帯電話が普及し孤独でいる時間は少なくなっている。いや、全くないのかもしれない。ちょっと心に隙間が出来れば、やれメールだ携帯電話だとつかの間の安らぎを求めすぎていないだろうか。孤立することが不安なのだろう。お互いにもたれかかりあっていれば安心なのだろう。しかし、それでは結局何も解決しないのだ。まずは孤独と親しみその中で自分を見つけること。そして長い間をかけて自分を見つめ続けること。それによってしか得られない何かがきっとあるはずだ。単独行者のみに与えられた時間かもしれない。

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